所在地 : 〒786-0004 高知県高岡郡四万十町茂串町3-13
TEL : 0880-22-0376
宗 派:真言宗智山派
本 尊:不動明王 なうまく さんまんだばざらだん せんだまかろしゃだ そはたや うん たらた かんまん
観世音菩薩 おん あろりきゃ そわか
阿弥陀如来 おん あみりたていぜい から うん
薬師如来 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
地蔵菩薩 おん かかか びさんまえい そわか
開 基:行基菩薩(寺傳)
創 建:天平年間(729〜749)(寺傳)
周邊景點 : 四万十川、四万十鄉 水車亭 (芋條)
交 通 :
TEL : 0880-22-0376
宗 派:真言宗智山派
本 尊:不動明王 なうまく さんまんだばざらだん せんだまかろしゃだ そはたや うん たらた かんまん
観世音菩薩 おん あろりきゃ そわか
阿弥陀如来 おん あみりたていぜい から うん
薬師如来 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
地蔵菩薩 おん かかか びさんまえい そわか
開 基:行基菩薩(寺傳)
創 建:天平年間(729〜749)(寺傳)
周邊景點 : 四万十川、四万十鄉 水車亭 (芋條)
交 通 :
緣起 : 經過清流四万十川、標高300米程度高南台地的四万十町、建立了祭祀五尊為本尊的岩本寺。歴史要追遡至天平年間。寺傳、奉行聖武天皇勅命的行基菩薩、祈念七難即滅、七福即生、在現在地北西約3公里付近的仁井田明神傍建立末寺七寺、是為福圓満寺的前身。成為仁井田明神的別當職(別當寺)、被稱為仁井田寺。
弘法大師がこの寺を訪ねたのは。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。
天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退してしまう。再建の際に、この地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺(当時は岩本坊)に、寺の法灯並びに別当職は遷され、継承される。戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、神仏習合の札所として隆盛を誇っていた。明治になると神仏分離の政策で仁井田五社と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、それに伴う廃仏毀釈の法難に遭い、寺領地の大半を失ってしまう。再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し現在に至っている。
弘法大師がこの寺を訪ねたのは。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。
天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退してしまう。再建の際に、この地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺(当時は岩本坊)に、寺の法灯並びに別当職は遷され、継承される。戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、神仏習合の札所として隆盛を誇っていた。明治になると神仏分離の政策で仁井田五社と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、それに伴う廃仏毀釈の法難に遭い、寺領地の大半を失ってしまう。再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し現在に至っている。
留意點 : 本堂的天井畫